‟セルゲイ・ポルーニン” 英国ロイヤル・バレエ最年少プリンシパル昇格の天才

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英国ロイヤル・バレエ団に入団し史上最年少の19歳という若さでプリンシパル昇格という偉業を果たしながら、その2年後に同団を電撃退団。バレエ界を驚愕させた異例の天才バレエダンサー、セルゲイ・ポルーニン。

全身にタトゥーを入れるなど破天荒な一面がクローズアップされやすい彼ですが、どのような人生を送ってきたのでしょうか。今回の記事では、セルゲイ・ポルーニンが歩んできたこれまでの人生について詳しくご紹介します。

セルゲイ・ポルーニン 公式Instagram

セルゲイ・ポルーニンの幼少期|家族と離れ離れに…

セルゲイ・ポルーニンは、1989年11月20日にウクライナ・ソビエト社会主義共和国のヘルソンという都市に生まれました(※1)。

※1:ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は1991年に国名を『ウクライナ』に変え、独立しています。ヘルソンはウクライナの南部にある都市であり、ヘルソン州の県庁所在地。2001年の時点で人口はおよそ37万人であり、ウクライナの中でも最大の都市といわれています。

ウクライナは、言わずと知れた名バレエダンサーの輩出国です。

伝説のバレエ団“バレエ・リュス”を立ち上げたバレエ史に残る天才振付師兼バレエダンサー“ヴァーツラフ・ニジンスキー”や、舞の神と謳われた“セルジュ・リファール”のほか、近年で活躍したバレエダンサーとしては、ABT(American Ballet Theater)のプリンシパルを経て東京バレエ団のアーティスティックアドバイザーを務めていることで日本でも馴染みの深い“ヴラジーミル・マラーホフ”や、21世紀世界最高のバレリーナの一人に数えられ42歳となった現在(執筆時:2021年6月13日)もボリショイ・バレエ団でプリンシパルを務める“スヴェトラーナ・ザハロワ”など、ウクライナ出身の優秀なバレエダンサーは挙げればきりがありません。

そんなバレエの名門国であるウクライナに生まれたポルーニンは、4~8歳まで地元の体操アカデミーで訓練を受けた後、ウクライナの名門バレエスクール“キエフ国立バレエ学校”に入学します。

キエフ国立バレエ学校は、先ほど取り上げたザハロワや英国ロイヤル・バレエ団で12年間プリンシパルを務めた天才‟アリーナ・コジョカル“を輩出しているロシア国内でも有数の名門校。

そのような名門に入ることができたポルーニンですが、そのときプライベートに問題が起きていました。家庭があまり裕福でなかったため、家族がポルーニンのバレエ活動を支えるために出稼ぎへ出ることになったのです。

母親はポルーニンとともにキエフへ引っ越しましたが、父と祖母はそれぞれポルトガルとギリシャへ働きに出ることになりました。ポルーニンは、家族の期待を背負いながらバレエに打ち込みました。

セルゲイ・ポルーニンの少年期|才覚を表し始める

家族の支援もあってバレエを継続することができたポルーニンは、13歳となった2003年に英国ロイヤル・バレエ団の付属校である“ロイヤル・バレエ・スクール”に入学します。

持ち前の才能を遺憾なく発揮し徐々に頭角を現していくと、2006年には若手バレエダンサーの登竜門といわれる“ローザンヌ国際バレエコンクール”でスカラシップ賞と観客賞を受賞。

さらに、ユースアメリカグランプリ(通称YAGP)でもグランプリを獲得し、翌年の2007年には英国のバレエ学校で学ぶ15~17歳の生徒たちを対象とした“Young British Dancer of The Year(ヤング・ブリティッシュ・オブ・ザ・イヤー)”で第1位を受賞しました。

ヤング・ブリティッシュ・オブ・ザ・イヤーは、その年で最も将来を期待されるバレエダンサーが受賞対象のアワードです。つまりポルーニンは、この当時から英国バレエ界の将来を担うバレエダンサーとして期待を集めていたのでした。

セルゲイ・ポルーニンの青年期|英国ロイヤル・バレエ入団

ロイヤル・バレエ・スクールを卒業したポルーニンは英国ロイヤル・バレエ団に入団し、2009年にはファースト・ソリストに昇格します。

さらに翌年の2010年6月には、英国ロイヤル・バレエ団の最高位である“プリンシパル”に抜擢。当時ポルーニンの年齢はわずか19歳であり、英国ロイヤル・バレエ団史上最年少でのプリンシパル昇格でした。

一般的にプリンシパルの階級に位置するバレエダンサーは、そのバレエ団で1割にも満たない数しかいません。

例えば、日本で唯一の国立バレエ団“新国立劇場バレエ団”には84名のダンサーが所属していますが、プリンシパルの位を与えられているのはたったの7名。

限られたバレエダンサーのみ与えられるトップの階級、それがプリンシパルなのです。

しかもそれが、世界三大バレエ団のひとつである英国ロイヤル・バレエ団ともなればプリンシパルとしての注目度も別格。

ポルーニンの英国ロイヤル・バレエ団での史上最年少プリンシパル昇格は、当時のバレエ界を揺るがす衝撃的な出来事でした。

セルゲイ・ポルーニンの青年期|苦悩と葛藤

最年少でのプリンシパル昇格という偉業を達成し順風満帆のように見えるポルーニンですが、実際は英国バレエ界に上手く馴染むことができず苦悩を抱えていました。

その苦悩故か、Twitterで「ヘロイン売っている人いない?」と呟いたり、コカインを吸引して舞台に上がったり、全身にタトゥーを入れたりなどの行動を繰り返し、カンパニーきっての“バッドボーイ(問題児)”とされていたのです。

では、何がポルーニンの頭を悩ませていたのか? その悩みの種はバレエ界の風習にありました。

華やかな姿とは裏腹に、トップバレエダンサーの生活は過酷です。週5~6日の厳しいレッスンを受けながら舞台に立ち、団やカンパニーのために撮影取材や宣伝の仕事もこなします。

給料については英国の場合それほど多く貰うことはできず、ファースト・ソリスト以下の年収は約25,000~50,000ポンド(375~750万円 ※2)の間であることがほとんど。プリンシパルであっても海外客演など複数の収入源を持たなければ、例外といえるほど稼ぎを得ることはできません。

参考:バレエ団のマネジメントに関する調査報告

※2:イギリスの物価指数は世界で一番ともいわれています。こちらの記事の調査によると、2019年11月時点の世界主要都市の物価を比較したところアメリカ・ロサンゼルス、日本・東京よりも10%以上物価が高いことがわかりました。物価の高いイギリスにあって、この年収は決して高いものとはいえません。

ポルーニンは祖国の家族を支えるために必死に努力を重ねてきました。彼が15歳のとき、両親は離婚しています。理由は明らかにされていませんが、出稼ぎなどでバラバラとなった影響が少なからずあったのでしょう。

ポルーニンはトップバレエダンサーになりお金を稼ぐことで、これまで支えてくれた家族に恩返しをしたいと考えていました。壊れてしまった家族の関係を少しでも修復したかったのです。

しかし、英国バレエ界ではプリンシパルまで上り詰めたとしても大きな稼ぎを得ることはできず、自分の生活を支えることで精いっぱい。バレエダンサーとして生計を立てることは十分可能ですが、国外の家族を養えるほどの財を成すことは難しかったのです。

日本国内最大級のオンライン・女性メディア「GLAM」の記事によると、『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』 の取材でポルーニンはこのように答えていました。

「バレエ界はとても狭い世界なので、バレエ団やディレクターに逆らうと舞台に上がらせてもらえないから、誰も報酬や待遇に関する不満を口にすることができない。ディレクターに嫌われたらおしまいだからね。それにカンパニーの宣伝のために雑誌の広告撮影などをやっても、ギャラはすべてカンパニーに入るので、こっちはただただ余計な時間を使うだけなんだ」

※3:彼はダークサイドに堕ちたのではない。 不良ダンサーの焼印を押された天才の逆襲

また、ポルーニンの持つ豊かな感性がバレエ界の構造と相反していたことも頭を悩ませていた理由のひとつです。

バレエが創造的な芸術活動であることは間違いありませんが、その一方でバレエに必要とされる鍛錬は創造性の余地が無い地道なもの。

さらに、カンパニーに所属すれば好きなように踊ることはできません。与えられた役を一定以上の水準でこなすことが求められ、企業に勤める会社員の如く上司(ディレクター)の要望に従う必要があります。

そんなバレエ界の風習が、独特な感性を持ち表現活動に意欲的なポルーニンの肌には合いませんでした。

驚くことに、プリンシパルに抜擢されてから約2年後の2012年1月24日、突如英国ロイヤル・バレエ団の退団を発表します。

人気絶頂の中、まさかの電撃退団。翌日の25日、イギリスの公共放送であるBBCにニュースとして取り上げられ、ポルーニンの電撃退団の事実は瞬く間に世界中へ拡散されることになりました。

セルゲイ・ポルーニンの青年期|傷心の中、祖国へ…

バレエ界に失望したポルーニンは傷心の中、祖国へと帰ります。そして、当時ロシア国立モスクワ音楽劇場バレエ団の芸術監督を務めていた‟イーゴリ・ゼレンスキー”と出会うのでした。

ゼレンスキーはポルーニンを歓待し、ポルーニンもまた父のようにゼレンスキーを慕いました。

ゼレンスキーとの出会いからバレエへの情熱を取り戻したポルーニンは、ロシア国立モスクワ音楽劇場バレエ団のプリンシパルダンサーとして踊ることになります。流石の活躍を見せ、2014年にはロシア・バレエの優れたダンサーに贈られる「黄金のマスク」賞も受賞しました。

セルゲイ・ポルーニンの青年期|バレエダンサーの枠を越えた活動を開始

その後、ポルーニンはバレエダンサーの枠を越えた活動を始めます。

2015年にはグラミー賞にノミネートされたアイルランド出身歌手ホージア(Hozier)の楽曲“Take Me To Church”のミュージックビデオに出演。このミュージックビデオは高い注目を集めることとなり、YouTube累計再生回数は2021年6月12日時点で2700万回再生を超えました。

Sergei Polunin, “Take Me to Church” by Hozier, Directed by David LaChapelle

翌年、2016年には「ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣」というタイトルで自身の半生を描いたドキュメンタリー映画が公開。この映画ではポルーニン自らが主演を務め、ゼレンスキーもキャストとして登場しています。

映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』予告編

さらに翌年、2017年には映画「オリエント急行殺人事件」で本格的に俳優デビューを果たしました。

全員名優!『オリエント急行殺人事件』新予告編

セルゲイ・ポルーニンの壮年期|~現在

現在31歳となったポルーニンですが、変わることなく精力的に表現の活動を継続しています。2021年4月10日には初の日本単独公演として「ラスプーチン」を発表し、この公演では日本の振付家・大石裕香が演出・振付を手掛ける作品も演目に組み込まれました(残念ながら新型コロナウイルスの影響で中止となってしまいました)。

同年6月には「ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣」の続編作品「DancerⅡ(原題)」が製作中との情報が公開されています(紹介記事はこちら)。

まとめ

バレエダンサーとしてだけでなく、俳優としても活躍するセルゲイ・ポルーニン。今やバレエ界の異端児というイメージは消え失せ、「表現の幅が広いクリエイティブなバレエダンサー」という認識が広まっているように感じられます。

一般的なバレエダンサーと比較して異質な存在であることは間違いありませんが、以前のような異端児といわれるほどの行動は耳にしなくなりました。

もしかすると、それは彼が自分の居場所や成すべきことを見つけたからなのかもしれません。バレエを軸におきながら俳優業や創作活動を行うことに大きなやりがいを感じているように思います。

これからどのような素晴らしい作品を世に打ち出してくれるのか。バレエ界の頂点まで上り詰めた経験がある彼だからこそ表現できる何かがありそうです。今後の彼の活動に注目していきましょう。

さて、今回の記事では彼の人生に詳しく紹介してきましたが、より詳しく知りたい方は「ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣」を見るのが一番です。ドキュメンタリー映画となっており、ホームビデオの映像やポルーニン自身のインタビューなどを交えながら、彼の過去を鮮明に描いています。

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バレエに興味のない方でも楽しめる作品となっているので、ポルーニンに興味を持たれた方はぜひ鑑賞してみてください。きっと彼の魅力に惹かれるはずです。

>>セルゲイ・ポルーニン 公式サイト

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